以前「凶角のない人」で紹介したマツさんの喫茶店には、

私は月に一度くらいはふらふらと顔を出すのであります。

愛知県弥富市内にある海に面した地域で、行く途中の川には釣り船が結構が停めてあったりするのです。

川の周囲の土手は草が生い茂っていて、くねくねと曲がっているのでありますね。

平日でも昼間から結構、釣りをしている人がいて、秋なんかはフナを釣るために、遠くからも人が集まるそうで。

夏は暑くても、パラソルを立てたり、・・・でも、水面が返す陽の光はまぶしいままで。秋は灰色っぽい防寒具を着込んだりして。うなだれて、ぼーっとしているのであります。


川の堤防のような高台を一本の道が走っています。なぜか片側にしか家が建っておらず、向かい側には古くからある小さな神社があって、その境内の木々がまたくねくねと曲がっていて。

その道は、昭和のはじめ頃までは、国道1号線だったのですよ。つまりは東海道。由緒ある道。

海に面して、広がっている川の河口付近に、亀ヶ池(かめがんじ)という集落がある。

かつては海苔の生産が盛んなところで、半農半漁の集落だったのです。でも、昭和30~40年代に、護岸工事などで、漁業権を奪われ、・・・と言っても、その賠償額が結構な金額だったので、そのお金で先見ある者は、他で土地や山を買い、それが高度成長やバブルで値上がって、一財産作って、より住み良い場所に引っ越していったり、・・・そうでない者は、いきなり大きな大金を手にして、浮かれて、飲んで騒いで、あぶくと消えて、この地で適当な仕事を見つけて、勤め人をやったり、・・・片手間には農業を続けていたりして。

海からの潮風は昔と変わらず、吹いてくるけれど、大海原を眺めて仕事する者ではなくなったのですよ。

地元の伝統的な仕事を奪われて、でも、結構なお金をもらっているから、今さら、愚痴るのもカッコがつかない・・・、あのお金を有効に使っていれば、人生は変わっていたかもしれない、なんて悔やむことも、海からの風がすべて包み込んでくれるような。


小さな港に面し、高台の道沿いに、ツタが生い茂って、看板も壊れていて、なかなか探し出せない喫茶店「抹津」がある。

マツさんの店である。

地元のなんかのメディアの広告営業がやってきた時に、マツさんは「客が増えたら、忙しくなって、困るだろ」と言って、追い返したという。

お昼までしか営業しない、一見さん(いちげんさん)は来ないでくれ、というお店だ。


私が車で駐車場に入ると、窓のレースのカーテンの隙間から、じろりと睨む視線を感じる。

そんな店なのだ。


店の中は常連ばかりで、客の多くは60歳以上。中には、90歳近くの人も結構いる。定年で退職しているのに、作業服を着ている人が多くいる。慣れ親しんで、着心地良いから、普段着として着続けているのだろう。

いつもは、競馬中継しかつけていない50型のテレビが、珍しく、競馬以外のものをやっていた。女子ワールドカップサッカーだ。なでしこである。オランダ戦だったな。


「珍しく、こじゃれたものがやってるじゃないですか」とマツさんに声を掛けると、

「女子はいいな。みんなハキハキやっててなあ。」と意味不明ながら、ニュアンスは伝わってしまう返事が帰ってくる。


競馬中継をつけていても、ここの客はハズレばかりで、またそれがいつものことというような空気感がある。愚痴る言葉がおちゃめだったりするんだな。

気分がちょっとでも高揚することがあれば、サッカーの勝ち負けもどっちでもいいことなのだろう。

マツさんの店の中では、勝つとか負けるというものは、興奮するためのきっかけであって、いつまでもそれで滅入っていることはしない。


こんな年配の人たちを見ていると、どこか親父に似ているようで、・・・まったく違っている。


もう亡くなって10年になるが、私の親父は本当にダメな人だったのですよ。


昔は大工をやっていて、職人っぽい性格だったのだけれど、また同時に職人らしく酒をよく飲んでいた。

白地に青色の花柄の入った安物の湯のみに、一升瓶から酒をついでは、飲んでいて、その湯のみが濯(ゆす)がれることなく、いつも居場所も無さそうに、こたつやテレビ、箪笥の上に置かれていたりした。日本酒だけで、ビールなどは飲んでいるところを見たことが無かった。

豪勢に飲むのではなく、喉が渇くと水の代わりに、だらだらと酒を飲んでいた。休みの日などは朝から飲んで、何をするでもなく、布団の中で横になっていたのである。趣味が何も無かったのだ。

「起きとっても、仕方ないがや。寝とるわ。」というのが口癖だった。


大工をしていたと言っても、体格がいいわけではなく、むしろ細身で、背は低かった。背が低いのは、育ち盛りの時期が戦争中だったということもあろう。


私が子供の頃に住んでいた町には、毎年6月に祭りがあった。獅子舞や神輿を子供たちが担いで、町内を廻る。親たちも当然参加するのだが、その父親たちは子供の前でカッコいいところを見せようと、男気を発揮する。町名の入ったお揃いの青い法被から太く、日に焼けた腕が出ている、というのが、大人の男である。でもうちの親父はそうではなく、私は末っ子のため、親父は結構、年を取っていたので、・・・だから余計に自分の父親だけが小さく見えたのだった。

父親たちは、アトラクションとして、大人用の重い神輿を皆で担ぐ。威勢良く大声をあげ、重厚に装飾された神輿をぶんぶんと上下に揺さぶっていた。

その男たちの中、私の親父は御神輿を担ぐというより、ぶら下がっているようにも見えたものだった。

大人の神輿を、隣りで一緒に見ていた近所の親しい友人は、人に聞こえないよう、耳元で

「お前の父ちゃん、いない方がいいとちゃうか。」

と言われた事もあった。


親父は人付き合いがあまり好きではなく、そういった祭りも本当は参加したくなかったのであろう。しかし、祭りに付きものの酒があるから、出ていたのだと思う。

祭りが終われば、子供たちは先に帰り、大人たちだけで、乾きものを肴に酒宴が開かれる。

家でテレビを見ながら、お袋の作ったちらし寿司なんかを夕食に食べていると、決まって、親父は酔いつぶれて、近所のおじさんたちに担がれてくるのだった。それは毎年のことだったので、私も兄もすっかり慣れてしまっていた。布団まで運ぶのが面倒で、玄関先でそのまま寝込むことにも慣れっこだった。

だらりと首の伸びた白い肌着。しみ込んだ汗も酒臭かった。

結婚式に呼ばれても、引き出物を持って帰ってきた事など一度も無かった。帰りの自転車で、転んだり、水路に落ちたりして、酔っているからどこに落としたかも全く覚えていない。


中学しか出ていない親父は、新聞は読んでていたが、文字があまり書けなかったようだ。町の書類の類いなどはすべて兄が書いていた。だから親父には年賀状も少なかった。というより、数枚の親戚のものしか無かったのだ。その分の年賀状もお袋が書いていた。時々、新聞の余白のところに、自宅の住所を書いていた。自分の住所くらいはちゃんと書けないと困ることぐらいは分かっていたのだろう。

親父はまったく子供の教育には関心を持っていなかった。私が小学校2年生ぐらいの時、クラスの作文集を親父に渡したのだが、親父は、私の作文を見つけることができなかった。「将来の夢」だったか、「私の家族」だったか、学校での出来事だったか、何を書いたかまでは覚えていないが、親父は私のそういった作文を読む事は無かった。そんな時でも親父を酒を飲んでいて、文集の中で迷路になったまま、酔って眠ってしまっていたのだった。

そんな環境だったから、私は親父に通信簿を見せたことが一度も無かった。


私は名古屋大学の文学部で西洋哲学を勉強していた。私は大学院に進もうとしたが、院生が誰も卒業しなかったので、大学院の席が空いておらず、留年して待つ事になった。その留年した年、親父は、息子がまだ学生であることを勤めていた会社に証明するため、学生証のコピーを持っていったのだった。

親父が会社に提出した時、上司が驚いたという。というのも、親父は、私が愛知教育大学に行っていると思い込んでいて、会社でも周囲にそう話していたのだ。親父にとって、大学はどこも一緒だったのだろう。親父は私の学生のコピーを会社に提出した時、初めて私の行っている大学の名前を知ったのだ。

そういう親父だった。


そんな親父だったから、あまり話すこともなかった。

社会人になって、駅で顔を会わせても、ふらふらと歩いている親父に声を掛けることは無かった。


10年前、私がアメリカにいて、帰ってきたら、死んでいた。

焼酎を飲み過ぎて、寝ている間に、吐いて。嘔吐物で詰まらせて、亡くなったのだ。

その時に限って、日本酒ではなく、焼酎だった。

なぜ、焼酎だったのか、分からないままだ。


葬儀になって、兄が千葉からやってきた。

親父は兄に言い残していたことがあった。大した遺言ではないが、唯一の遺言。

押し入れの大工道具の中に、若い時に修行した衣装があるから、それを棺桶に入れてほしいというのだ。ずいぶん前に兄貴は言い聞かされていたようだった。30年近く昔であろうか。それをまた律儀で真面目な兄貴は思い出したのだった。

「修行って、何の修行だよ?」

「俺も知らん。そこは聞いていない。」

にしても、そんなものが簡単に出てくるのだろうかと怪しんでていた。押し入れの中には、古びた大工道具がぎっしりと詰まっていた。

でも、不思議な事にすんなりと出てきた。

白い衣と、茶色い袴であった。風呂敷に包んであった。もう風呂敷は色が変わり、濃い樟脳(しょうのう)の匂いがしていた。何十年前のものか分からないほどで、私も兄も初めて目にするものだった。

それが何なのかは、葬式の時に、叔母から聞くことになった。


親父は、昔、修験者として、10代の頃、ずっと修行していたというのだ。

修験者というのは、滝に打たれたり、崖を登ったり、荒行をする者たちのことだ。


私も兄も、初めて聞く予想外の話に、ただただ耳を疑った。“それは誰の話?”という感じだ。


親父の実家は、名古屋市の東端を流れる庄内川の近くにあった。

昔、親父の母、つまり私の祖母にあたる人が重い病気になったという。私の祖父も大工だったという。私の家系は大工の家系なのだ。でも、祖父は早くに亡くなっていた。祖母が頼りの家庭だったのだが、その祖母が病気になって、倒れしまった。

兄弟姉妹は7人。そのうち3人の兄弟が、近くの高名な先達(せんだつ)さんのところに治癒祈願に行ったという。

先達というのは、祈祷する人、というか、修験者たちのマスターのようなものである。その女性の先達さんは、叔母の話によると、雨が降っているような日でも、天に向かって九字を切ると、雲が切れ、雨に濡れずに歩けたという。九字というのは、指をいろいろ絡めたりして、ポーズを作り、“えいっ、えいっ”と唱えたりすることだ。そんな技と言うか、呪術というか、祈祷というか、ができる人だったそうだ。

親父たち3人の兄弟は、その先達の元で、祈祷のための行を数ヶ月間したらしい。

そのおかげのためであろうか、祖母は一命をとりとめ、奇跡的に回復したという。
親父は祖父、つまり自分の父を13歳の時に亡くしている。終戦直前だった。戦後の混乱の中、母親まで亡くしてしまったら・・・、親父にとって、先達さんはまさに神仏であったことだろう。
 

無事、祈祷のための行を終えたのだ。それで、終了という事だったのだが、親父だけは、その先達の門を叩き、本格的に修行を続けていったという。

親父は、神通力を得るために、修験者となったのだ。

大工の仕事をしながら、毎朝、庄内川に入り、お経を読んでいたという。冬の朝でも肩まで浸かっていたそうだ。日曜日には、岐阜県の各務原市にある迫間不動の修験場に通ったというのだ。名鉄の各務原駅から迫間不動までは、山をいくつも越えなくてはならない。歩いたら、何時間かかるだろうか。

親父が亡くなって、遺品を整理していると、修験者姿の写真が出てきた。セピア色になった白黒写真には、四国八十八箇所巡りをするような衣装を着た親父の写真がいくつも出てきた。大工の写真より、そっちの方の写真の方が多かった。

写真を見ると、周囲には年配の人だらけである。何十人と写っている集合写真には、先達さんを中心に、弟子たちが囲っている。その一番端の方に、場に馴染まず浮いている十代の青年が写っている。一人だけ飛び抜けて若かったのだろう。他の写真では、衣装は、白い行者のいでたちであるが、一人だけ靴がスニーカーだったりする。

仕事が休みの日には、毎週のように山へ修行に行く。始発の電車に乗って。雨の日も、雪の日も通っていたそうだ。

親父は十代の半ば近くから10年間くらいはずっとそんな生活をしていたのだ。

親父の青春時代は、なんてストイックなものだったのだろうか。


叔母の話によれば、親父はかなり高い位まで上り詰めたそうだ。

ただ先達まであと一歩という、試験のようなものに合格できなかったという。

お酒が原因だったかもしれないと叔母は言うが、そもそもどんな修行だったのか、試験だったのかも分からない。


というもの、親父は修験者だったことについて、私や兄には生前一切話したことが無かったのだ。

ただ長男の兄にだけは、棺桶にその行者の衣装を入れてほしいとだけ、言っていただけだ。


考えてみれば、わが家には変な習慣があった。

家には、神棚がある。私はどこにでもある普通の神棚だと思っていたが、中はお不動様のお札が貼ってあるのだ。

お盆や、大晦日、お正月の朝晩には、親父は酒を飲みながらであるが、神棚の蝋燭に火を灯し、ご開帳して、お経を読んでいた。大晦日で、家族がテレビを楽しんでいる時も一人、お経を読んでいた。うちは紅白は見ず、裏番組のお笑い系などを見ていたが、家族が大きな笑い声を上げていても、親父は奥の部屋でお経を読んでいる。時々、“えいっ、えいっ”と言って、九字を切っているようだった。そんな風景がお正月三が日の朝と夜はずっと続いていた。

私の家では当たり前の光景であったので、私はどこの家でも父親というものは、お正月の朝と夜はお経を唸りながら読んでいるものだとばっかり思っていた。


私が幼稚園児だった頃は、毎月のように加藤さんという先達さんがいらっしゃった。もちろん、その頃、「先達」という言葉も知らず、ただ黒い着物を着たおじさんがやってくるというイメージしかなかったのだが。神棚に向かって、お経を読んでいったのだ。お経を読み出すと、いつも穏やかな加藤さんが、急に怖い感じになることだけは脳裏に焼き付いている。母も同じことを言っていた。声が別人のようになってしまうのだ。

おそらく親父の修業時代の先輩ではなかったであろうか。

加藤さんがやってくると、普段、家にはないお菓子や寿司が用意してあったりして、・・・その加藤さんは口をほとんどつけることが無かったので、その残りを頂くのを私は楽しみにしていた。お経を読んでいる間もそのお菓子をじっと眺めていた。だから、加藤さんが来る日を楽しみにしていて、その時間は、遊ばず、家にいるようにしていた。

お経を読み終えると、加藤さんは、母に調子の悪いところは無いかと訊き、母はいつも肩が凝っていることを伝えていた。すると、加藤さんは、座っている母の背後にまわり、九字を切りながら、何かを唱えた後、“えいっ”と母の肩をポンと叩くのだった。

すると母は「ああ、気持ちよくなった。これが効くんだわ。」

母にとっては、先達もマッサージ師も変わらなかったのかもしれない。

仏壇のある家では、月参りといって、お坊さんが家にやってきてお経を読んだりする。一見の同じ風景のように見えて、“なんか” 違うものだった。だから、私にはそれもごく普通のことだと思っていた。


高校時代に引っ越しした後も、親父は木でできた黒くて丸いお椀のような磁石を片手に、“こっちの襖は鬼門だから、もう一方の襖で開けろ”とか、ここに鏡を置くなとか言っていた。左右の襖のどっちを開けるのか、そのレベルである。


一方で、私は高校時代ぐらいから、仏教などに興味を持ち、学校の図書館から本を貸りて読んでいた。禅語の本などは特に熱心に読み込んでいた。もちろん、禅や仏教の思想などは本を読んだからといって、そうそう理解できるものではない。私は、その辺りから哲学に興味を持ち出したのである。


私は難しい漢字だらけのお経のような本をコタツに入って読んでいる。

親父は、同じコタツで酒を飲んで、横になっていた。寝ていた。


親父は、私がそんな本を読んでいることを、横目でちらりと見ていたのだろうか。

それともまったく気づかなかったのだろうか。

なぜ、一言ぐらい、自分が山で修行していたことを言わなかったのだろう。

私は、宗教学も大学で勉強していたのに。


私の親父は、昭和7年、1932年3月16日生まれ。

ホロスコープチャートを作ってみると、ほとんど吉角、凶角が無いことが分かる。

凶角としては、天王星と冥王星の90度がある。これは革新の星並びとも言え、“転覆させる、一変させてしまう”星並びである。

現在の40代には天王星と冥王星が吉角0度の人もいるが、それは吉角=ソフトアスペクトなので、まだ自分でコントロールができる変化である。もしくは自分から起こしていく革新である。会社勤めの人なら、社内の古い慣習などを壊そうとするような人物であったり、やたらと新しいモノ好きだったりする。でも凶角=ハードアスペクトの場合、力がより強いので、逆らうことができないような、かつ劇的な変化をしてしまう可能性がある。もしくはさせられるのだ。

親父の場合は、さらに、太陽がドラゴンヘッド(太陽と月のコースの交点)が重なっている。

ドラゴンヘッドは前世やらカルマの影響を受けると言われているが、私はそういう “で、実際はどういう現象が起るの?” と言いたくなるような、神秘的だが曖昧な西洋占星術用語解説は嫌いなので、私なりに解釈すると、“不気味な力を加えるもの”としておこう。

例えて言うなら、阿部首相は、生まれた時に火星(力、好戦的)とドラゴンヘッドが重なっている。そして現在(2015年7月)、その上に現行の冥王星(権力)が乗っているのだ。


親父はどんなふうにして、修験者を捨てることになったのだろう。

解らぬままである。


私は親父が亡くなってから、写真や叔母の話を頼りに、迫間不動に出掛けるようになった。それに、親父が残していった神棚のお不動様の扱いに今後困るだろうことが分かっていたからである。うちの神棚のお不動様は、単にお札が祀ってあるだけでなく、精(しょう)が入っていると言われていた。だから扱いが難しいとのことだった。兄は大変だから、精を抜いてしまおうと言っていたが、私は残したいと考えていた。

どちらにしろ、不動明王について知る必要があったのだ。

かつてうちに来てくれていた加藤さんはとっくに亡くなっていた。だから、親父が修行していたという迫間不動に行くぐらいしか方法は無かったのだ。


1200年の歴史があるという修験場。

かつて親父が行の一つして、息を切らせて歩いて越えていった道のりを、今は簡単に車で行けるようになった。

緑の濃い山の中にある。小さな川があって、そのまわりに仏像や石碑のようなものが多く建ててある。多くは先達とその弟子たちの墓である。その中の一本道をひたすら上がっていく。

長い石段があり、奥に洞穴のようなものがある。洞穴の横には、高さ7メートルくらいの滝があって、水しぶきを建てている。洞窟の中にお堂があって、本尊が祀られている。その洞窟の中には、何十、何百という蝋燭が絶えることなく灯されているのだ。


お不動さまを祀っているとなれば、仏教の宗派の中では、たいがい真言宗である。よくよくお寺参りしてみると分かるのだが、その中にも、土着の“混じりっ気”の多いものがある。真言密教とも呼ばれるものだ。修験者たちが神通力を得ようと、荒行をする宗派?である。実はこの混じった“密教”の部分は、中国の土着の宗教の部分で、混じったものを最新の仏教として空海が持ってきたとか、さらに日本の元からあった地方の信仰が加わったとか、説はいろいろである。1200年もあるのだから、亜流が現れたり、いろいろ混じって当然だろう。

四国八十八箇所巡りのお寺はすべて真言宗である。真言宗は、誤解を招くかもしれないが、シンプルな言い方をすれば、俗な宗教で、ご祈祷や呪術に近いものを多く行う。だから、これまた俗な欲をかなえてくれるので、経営者などにはよく受けたりする。だから、○○観音というお寺を見れば、真言宗のところが多い。そんなお寺は観音様がご本尊でも、お不動様がナンバー2の立場に立っていることはよくある。でも、祭事になると、お不動様が前面に出てきて、ご祈祷の護摩が焚かれることも時々見かける。実はお不動さまが、本当の本尊ではないかとも思えたりもする。


“先達”といっても寺によって、全然違う。ここまで読んだ人は、“先達”はいろんな祈祷ができるだと思い込んで、寺で“先達”という人にご祈祷をお願いしてしまうかもしれない。でも、実際にはただのお寺のツアーガイドだったりする。観光名所のお寺には多いパターンだ。私が昔働いていた職場の総務部長も、“先達”だった。ちゃんと証明書も持っていた。筆記試験と面接で手に入れたという。


私は探しているうちに、幾人かの先達たちに会うことができた。修験場で何年も荒行をした人たちだ。普段は、うどん屋や果物屋さんをやっている普通のおじさんだ。そんな、“普段は見えない”先達さんたちと話ができるのは、親父のおかげだ。だって、私の父は、昔、十年くらい山で修行していましたと言えば、すぐに心を開いてくれるからね。


名古屋では、御嶽山や熊野、大峰山といったところが主な修験場だ。迫間不動もそういった修験場の一つである。


便利になると、世俗さがどんどん加速したのだろう。親父が残した迫間不動の写真には、雪が積もっている中、氷ついた滝が立っている。人の姿はわずかな白い衣装の修験者たちだけだ。

しかし、今、お正月なんかに行くと、駐車場に車が入り切らず、山道に路上駐車するくらいだ。

私も数年前のお正月に、仕方なく路上駐車すると、前に停まったBMWから、若いカップルが降りてきた。女性の方は、スカートにハイヒール姿だった。

まだ石段には雪が残っているというのに。

一方、私の格好はというと、防寒ブーツに、建築現場などで使われる防寒用の作業ズボン、分厚い手袋、カーキ色のコートに、ニット帽をかぶり、リュックを背負っていた。


駐車場のすぐ隣りには、地元の農作物の直販場の建物がある。大根やしいたけなどがお値打ちな価格で並んでいた。年配の人たちで賑わい、レジのおばさんたちが笑顔を振りまいていた。

1200年続く修験場は、今は実に和やかなのだ。


親父が亡くなってから数年間、半年に一度は迫間不動に参っていた。

親父がたどり着きたかった世界というものを、少しでも見たかったからだ。親父の持っていた経本と、親父の師匠の女性先達さんの写真なんかを小さなリュックの中に入れて、山を登っていた。


そんな感じで通っていると、数年前の正月に、ある先達と弟子たちの一行に出会った。皆、白装束だ。どこか厳かな空気を醸し出している。修験者たちが、観光客に混じってやってくるのである。

私が奥の洞穴にある小さなお堂に座って、お経を読んでいると、その先達と一行は中に入ってきた。私は何か始めそうなその雰囲気に、席を空けたら、儀式が始まった。先達が険しい顔をして、お経を読み始め、祈祷が行われたのだ。幼い頃見ていた、先達の加藤さんの姿に似ていた。

弟子たちの望みを唱えながら、えいっと頭をポンと軽く叩いたりしていた。

その望みというのは、商売繁盛、出世などいった類いのものであった。


終わった後、私はその先達にお不動様の話を聞きたいと思い、声を掛けようとした。

すると私が持っていたお経の本や写真をちらりと見て、

「何も言わんでも、分かる。」

と弟子たちを従えて、山を降りていった。

本当に私は何も言っていなかった。

尋ねる内容が、野暮なものだったのかもしれない。私が知りたがっていることは、答えるほどのものではないのかもしれない。


その翌年のお正月、またその先達と一行に同じ場所で出会うことになった。

実は私は、その前の年の経験から、邪魔になるといけないと思い、日にちと時間を変えていた、にもかかわらず。

私の方はまたその小さなお堂の中で、お経を読んでいると、背中に気配を感じた。振り返ると、30代くらいの小太り男性が男性が立っていた。気にせず、お経を読み続けたが、私が終わった途端、すぐに先達と弟子たちは、中に入ってきたのだ。

小太りの男性は、弟子の一人だったのだ。“待っているよ”というプレッシャーを掛けていたのだろう。


私は先達の顔を見るなり、お辞儀をした。偶然とは言え・・・。怖いものだ。

「お前がここにいるのは、ずっと向こうを歩いている時から分かっておったわ。」

先達は、私の顔をじっと眺めながら、太くも枯れた声で言った。


私が自分の前に並べていた、親父の師匠の女性先達さんの写真を見て

「そんな大事なもの、山に持ってくることはないだろう。大切にしまっておけ。」


かっぷくのいい女性先達さんの満面の笑みの写真。セピア色になっている。確かに大切な写真である。でも、私が持ってきていたのは、実はカラーコピーであった。

でも、そんな説明は無用な空気なので、とりあえず、すぐに席を空けた。

できれば、もっと先達というものの活動や存在を知りたい。

私は、この先達さんがどこで活動されているのか尋ねようとした。

しかし、その質問の言葉が出る前に、先達は私の持っていたお経の本を見て、

「お前は仏の方だな、私は神の方なのでな。」


神の方?


一行は、並びだし、神事を始めた。前に先達、後ろに弟子たちが横一列になって座っていた。

唱えている言葉をよく聞いてみると、お経ではなく、祝詞(のりと)だった。

仏教のお経とは明らかに、リズムも文言も違う。祝詞に関しては、知識が無いので、どういう種類の、どんな祈願のものかは理解できずにいた。大祓いであろうか。


“神の方”とは、神道のことだったのだ。


迫間不動には、神道の修験者も来るのか。そもそも神道の修験者がいるなんて、初めて知ったのだ。お不動さまは、仏教のものかと思っていたが・・・。明治政府が行った神仏分離令は、この山奥の修験場までは届かなかったのか。そもそも密教があって、仏教も神道も、その上に乗っかっただけなのか。


底冷えする床の上で正座して聞いていた。蛍光灯で照らされた10帖ほどのお堂の中、正面には深く黒ずんだ本尊がある。湿った空気の中に、張り詰めた声の祝詞が響いていた。

神事と弟子たちの祈祷が終わるのを待った。


この時は先達に話をさせてもらうことができた。


親父がこの山で修行をしていたことを話し、先達に持っていたお経を見せると、

「おお、こんなお経を持っているところを見ると、結構高い位までいったのだな。」


しばらく、親父がどんな人間だったのかを話して、最後には酒を飲んで、嘔吐物で喉を詰まらせて亡くなったことを伝えた。

「そうか。そんな亡くなり方をしたのか。

もし修行を全うしていたのなら、覚醒して大往生することができたことだろう。

先達はそんな形で命を落とすことはない。

精進が足りんかったようだ。

もう少しのところを、残念だったな。」


街より温度はいくらか低い。山の中だから陽が沈みのが早い。山の陰が広がると、ぐっと空気が冷える。

一年で一番寒い頃の夕暮れの中、大きな樹木が茂る山の中を重い足取りで歩いていく。

何百と建っている先達やその弟子たちの墓は、岩窟のお堂までの一本道の両側に並べられている。先達の墓には、覚醒の“覚”という文字が最後に入っている。その墓を囲むように弟子たちの墓が建てられている。


お堂近くの滝から続く、小さな川に沿っている。

ここは谷なのだ。



先達というのは、そんなに偉いのかよ。

馬鹿野郎。

全然、残念じゃねえよ。