トラックの窓には雨粒が点々と当たって、垂れては、ワイパーに拭われていた。

4月の前半はずっと曇天が続いていて、どうにも気分も晴れずにいた。

母の一周忌が終わり、実家を空き家にしておくわけにはいかないので、引っ越すことにした。

2トントラックの私の両隣には、2人の暇人が座っていた。

絵描きが3人並んでいる。絵描きだから非力である。

引っ越し作業には、不向き3人である。少なくとも私の両脇の2人はそうであろう。一人はぎっくり腰をやらかしたばかりだし、もう一人は駅で電車の時間に間に合わせるために走ったら、膝が痛くなったという・・・力仕事には頼りにしてよいものかどうかというメンバーだった。

でも、私が平日に引っ越しを頼めるのはこの2人だけだ。

愛知県の一宮市に引っ越してきたのは3年半前で、そしてまた実家の家に戻る。もう母も誰もいない実家である。3年半前の一宮市への引っ越しもこのメンバーだった。座り順も一緒だったかもしれない。

私は大学生の頃、よく引っ越し屋でバイトをしていたので、段取りはよく分かっていた。だから自分でやっている。引っ越し代、お金掛かるし。

でも一人ではできないので、絵描きの2人に手伝いを頼むことになる。一人は昔解体業の職人をしていたので、2トントラックの運転など簡単にこなしてしまうのだ。

私は以前、一日中、絵を描いていた頃があった。絵描きだったのだ。

国内で入選、入賞をするようになり、海外への出展し、売れるようになっていた。

30代半ばでオーストラリアのメルボルンのアートショーに出展し、3品出したら、3品とも売れて、調子に乗って毎年参加するようになった。実績ができると審査無しで出展できるという特典もあったのだ。

そのアートショーは、私は初年から出していたのだが、2年目に出展し、メルボルンで出会ったのが、引っ越しを手伝ってくれている絵描きの一人、吉川君だ。彼にはその前の引っ越しも手伝ってもらっているので、これで3回目となる。

吉川君は、岐阜市内に住んでいる。私と住んでいる愛知県とは隣同士で、車で1時間もかからない距離ということもあって、よく会うようになっていったのだ。

メルボルンで出会った時、私は赤いつなぎの服を着て、展示ブースの制作をしていた。2年目だった私はギャラリーさんに頼まれて手伝いをしていた。そんな私を見て、吉川君は私を取っ付きにくい人間だと思ったようだ。

一方、私から吉川君を見ると、不器用そうな人間に思われた。その年に私の所属していたギャラリーで出品した作家は15人くらいだったと思うが、その一部の仲間で夜に食事に行こうとした時、彼は現金が無いので、銀行に行くと言った。彼が持っていたのは、トラベラーズチェックだった。よく旅行のガイドブックではトラベラーズチェックたるものが書かれているが、本当にそれを持っている人を見るのは初めてだった。いくら10年前とは言え、普通にクレジットカードで支払うのが当たり前の時代。トラベラーズチェックを持っている吉川君は、作家仲間からは半ばからかわれるような目で見られたものだった。

彼とは当時、使っている絵の具も同じでよく話が合っていた。ゴールデンというアクリル絵の具で、まだ日本では発売されて間もないもので、名古屋では使っている作家も、扱っている画材屋さんも少なかったのだ。絵の具の発色の具合は、メーカーによってそれぞれ違う。どんなものを好むかは、作家がどんな絵を描きたいかというところによるのだが、ゴールデンという絵の具は私と吉川君の好みに合っていたのだ。もともと油絵を描いていた私は、アクリル絵の具のペンキのようなプラスチック的発色があまり好きではなかったが、単純な色をすっきりと出しているゴールデンという絵の具は混ぜても、出てくる色が予想しやすく、扱いやすかった。その頃、クラブなどでライブペインティングも行っていたので、さすがに乾きの遅い油絵の具ではできず・・・ゴールデンなら、アクリル絵の具でも使っても良いかなという具合で、使い始めていたのだ。

吉川君も鮮やかな色の風景画をよく描いていた。だから発色に関しては神経を使っていたのだろう。発色についての話は言葉にならないものがあって、そもそも好みとか、感覚の問題である。“これ、いいんだよね”以上の話はなく、“これ、いいんだよね”という言葉と表情だけで話に熱を帯びるのである。色に対する感性が合ってくると、何かと話も合いやすい。いろんな面で好みが合ってくることもよくあった。

だから、メルボルンでいる時もよく一緒に行動していた。

メルボルンのアートショーには、百以上のギャラリーがブースを並べ、世界の1500人以上の作家が出展していた。コンクールではない。販売目的のショーなのである。スポンサーには酒造会社が入っていて、正式開催の前夜のプレイベントでは、招待客しか入れないのだが、ワインとビールが無料で振る舞われた。私らは、そんなお酒を飲んでほろ酔い気分で他の作品を見て回っていた。おふざけに絵を描き合ったりした。会場は世界遺産である。100年ほど前に万博が行われた会場らしい。このアートショーが近づくと、市バスにも広告が大きく張られていた。街のお店やギャラリーでも、アートショーに参加するために日本から来たと言えば、親しく話し掛けられたりしたのだ。

アーティストとして扱われて、心地良い反面、いつもすぐに劣等感を背負わされることになる。

同世代の若い作家の感性と表現力にはとにかく圧倒されたのだ。打ちのめされるのである。自分の力の無さをまざまざと見せつけられるのである。

日本で見られる現代の作家の作品とは、おおよそ年配の人ばかりである。もしくはすでに亡くなった巨匠である。申し訳ないが、そんな作品に“今の時代”に共鳴するものはほとんど無いと思っている。なぜ、音楽はすぐに海外の若手のものが入ってくるのに、絵は若手の作品が入ってこないのか。簡単に言えば、ビジネスとして上手に成立していないからである。

ここに来ている人間は、絵は上手くて当たり前である。そもそも学校で一番、学年で一番絵が上手かったとしても、私が子供の頃は3300もの自治体(市町村)があり、それぞれが複数の小、中学校を持っている。おそらく同じ年齢で、“クラスで一番絵が上手かった”という人間は日本だけで1万人はいるだろう。

絵は上手くて当たり前で、問題は、人がお金を出してでも欲しいと思えるような魅力的な絵を描けるかどうかが問われるのだ。

アートショーでは、多くの優れた若い感性でちゃんと“今”を捉えている。頭が真っ白になるほど驚かされる。格段の力の差、成長力の差、感性の差、そんなものに畳み込まれてしまうようだった。吉川君もそうだった。

だから新しい技法や絵の具などを見ると、その作家がブースに居れば、尋ねてメモをして回った。下手な英語で懸命に聞き出していたのだ。ありがたいことに作家同士というのは、すぐに友人になれるものであり、こちらが遠い国の人間であると分かると、意外と簡単に教えてくれるものだった。もちろん、技法は絵の大切な根幹ではないことは分かっている。しかし、それほどにまで、焦らされてしまうのだ。自分の修行不足を感じさせられてしまうのだ。反則をしてでも彼らに勝ちたいと思ったものだった。

アートショーで絵は売れたとしても、打ちのめされて帰国する。私はその頃、毎年そんな経験を繰り返していた。

同じ気持ちを抱いていた吉川君とは日本でも、というか、名古屋でも一緒に行動するようになった。吉川君がお世話になっている地元のギャラリーに紹介してもらい、一緒に出展したりしていた。吉川君は強く刺激的な色調で、幻想的な風景画を描いていた。原画も売れるけれど、絵はがきや印刷ものなども私よりはるかによく売れていた。

ある地元の百貨店で一緒に催しもの会場で出展することになった時、私はいつもとは違うFlashというフランス製の絵の具を使っての試作の絵を出した。そのFlashという絵の具はテンペラ調の画風になりつつも蛍光顔料を含んだ面白い色調を出すものだった。テンペラとは古いヨーロッパの壁画を描くために使われた絵の具である。全体的にベージュっぽく、粉っぽい感触に仕上がる。本物のテンペラは顔料を卵の黄身で溶くという厄介な絵の具なので、使っている作家はほとんどいない。そんな色調が出せるという絵の具なので試しに買ってみたのだ。メルボルンで見つけたものである。絵の具は、絵描きにとって道具のようなもので、癖を知って、使いこなせるようになるには、少々時間が掛かるものなのだ。力の抜けた女の子の絵を描いた。小さな作品である。絵の具のための練習作であったが、あるギャラリーカフェで展示した時、評判が良かったので出展することにしたのだ。

絵を出展する時、私たち作家は、表示価格と“最低価格”をギャラリーと話し合って決めていた。つまりどこまで値引きしていいかという相談である。作品が売れ残っても、在庫が増えるだけなので、多少の値引きで売れるのなら売ってしまいたいというのが作家の本音である。

私はそのおまけのような小作品を40,000円の定価で出し、30,000円までまけてもいいという設定にした。

百貨店での出展にはお手伝いで参加し、ギャラリーさんとともに店番を交代で行うことにした。

この小作品に関しては、予想外のことが起った。

出展初日のことである。私が暇つぶしに百貨店内をうろうろしてブースに戻ってくると、その小作品がすでに売れたというのだ。初日の午前中のことである。あまりの早さに驚いた。いくら安いものとは言え、絵を購入する時、一旦家に帰ってよく考えてから、また買いにくるということはよくあることだったのだ。だが、この小作品は瞬殺で売れたのだ。めでたいことだった。

店番をしていた吉川君によれば、中年の男性が、しつこくどうしても欲しい、だけどまけてくれたら即購入するというので、30,000円で売ったというのだ。最低価格というのは残念であるが、とにかく早く売れてることは縁起がいいものである。他の作品を売るにも、“つぼぼさんの作品はすでに売れたものもありますよ”という具合の売り文句ができるので、ギャラリーさんも販売しやすくなる。実際、私の他の普通の作品は5~10万円していたので、ややずるい売り文句なのであるが・・・良い呼び水になったことであろう。

他の作品も1週間ほどの展示中に2、3作が売れたのである。

百貨店と言えども、名古屋からもずっと離れた地方の街にある。平日は年配の人しか見かけないような百貨店である。

いつもは全国各地の特産物を並べるような催事場の会場で、陶芸などと一緒に絵を並べていたのだ。

私たち作家はブースに居てもやることがない。そんな時、吉川君が似顔絵描きをやると言い出し、高価な色鉛筆を持ち出して、一枚1,000円ほどで書き始めた。

時間を持て余していた私も、彼に色鉛筆を借りて、似顔絵描きを始めた。百貨店に来たお客さんたちが興味をもって、描かせてくれたのだ。描き始めたら、評判になり、順番待ちができるほどになった。

あくまで百貨店の催事企画なので、作品は1つ1つ丁寧に百貨店の会計の女性職員さんによって包装されてお客さんに手渡されていた。そんな女性職員さんともだんだん顔なじみになってくる。

ある日、その女性職員さんが休みになっていた。

今日はあの人は会計にいないのだなぁとぐらいに思っていたら、突然、着飾って、ブースに現れたのだった。似顔絵を描いてほしいとやってきた。普段のお勤めの時とは違う、明るい色を持った笑顔をしていた。まあ、そんな微笑ましい話もあった。

そのうちに、吉川君は諦めるように“つぼぼさんにあげますよ。”と、もうずいぶんと短くなったプロ用の色鉛筆を譲ってくれたのだった。

百貨店での展示も終わり、吉川君の家へ遊びに行った。アトリエである。

彼は母とわりと広い一戸建ての家に暮らしているので、十分すぎるほどのスペースのあるアトリエを持っていた。

とは言っても、アトリエはごちゃごちゃしているのが常である。これまでに描いた絵が並べてあり、絵の具や筆は適当によく使うもの順に置かれていたり・・・。

机の正面に、あの私の女の子を描いた試作品の小作品が立て掛けてあった。

「なんで、吉川君の家にあるの? 中年のおじさんが買っていったんじゃないの?」

彼は気まずそうに、またごまかすように笑いながら、実は自分が購入したことを白状した。

作家同士というのは友人でもどこかライバル心があって、あまり相手の作品を買おうとはしない。敬ってはいるが、嫉妬のようなものがあって、相手の絵を買うことは、その作家の方が上であることを認めるようで、躊躇してしまうものなのだ。

だから、吉川君は私の前では、嘘をついて言わなかったのだ。

「この壊れそうな女の子を見ていると、この子よりはマシだという気持ちになって、救われるんだよ」

机に座れば、いつも目に入るところだ。

絵というのは、自分の鏡である。まさに写し絵なのだ。

その壊れそうな女の子というのは、どこか当時の私自身の分身だったのであろう。

絵描きというのは、時間はあるけれど、私らのような者では、もちろん、収入は不安定だ。

不安定さも板に付いてくると、何も期待しなくなる。

ひねっても、茶色い水しか出てこない古い水道の蛇口のようだ。

吉川君は岐阜市内の長良川の堤防の近くに住んでいて、広い河川敷が間近にあった。

目の前に大きな堤防がそびえている。

土手の中に埋もれるようにあるコンクリの階段を上っていく。

堤防の上に立てば、手前に雑木林が生い茂っていて、その向こうにゆったりと流れる長良川。

川の向こうにはいくつもの緑色の山がかすんだ姿を見せていた。

電線も高い建物もなく、青い空があって、雲が流れていた。

私たちは、その河川敷でバーベキューをやるような健康的な人間ではなかった。それほどストレスも溜まっていなければ、人を集めての賑やかさを求めることもなかった。

ただぼんやり眺めていた。吹いてくる風を眺めていた。

吉川君は幼い頃からこんな風景を眺めて育ってきたのだろう。色こそはカラフルだが、風景画ばかり描く理由はここにあるのだろう。

吉川君は緑内障という病気を患っている。その病気が発病して、勤めていた設計事務所を辞めて、絵描きになった。

視界がだんだんと埋まっていく病気なのだそうだ。

やがて真っ暗になるかもしれない。

最初、右目から始まり、今は左目も患っている。

だから目が見える間に大好きな絵を描いておきたいというのだ。

彼がテレビや新聞に取り上げられるときは、この話が多い。“目が見えるうちは、大好きな絵を描き続けたい”という悲哀のアーティストである。限られた時間の中で、必死に自らの美を求め続けて燃え尽きようとするといったようなイメージなのであろう。

彼はいつか闇の世界に入っていく・・・。でも、出会ってから10年、まだ普通に作家活動をしている。私の引っ越しも手伝ってくれている。

ギャラリーさんは、吉川君にそういった物語を付けた方が売りやすいのであろう。それがビジネスというものだという割り切り方で、吉川君もそんな“味付け”に乗っていた時期もあった。障害者であることも商品として、売り出してしまうことに何の抵抗も無い。絵を描いていられれば、そんなこと、どっちでもいいのだ。

彼が闇の中に閉じ込められてしまうのは、今日、明日では無い。来年の話でもない。

長い時間をかけて、ゆっくりと、ゆっくりと視界が埋められていく。

だが、安定し、進行が遅ければ、死ぬまでに失明することはない。

追いかけてくるものがいて、いつ失うかもしれないという怖れ。

彼の抱いている不安とはどんなものなのだろうか。

ゆっくりと暮れていく夕陽のような絶望なのだろうか。

吉川君の生年月日は1977年5月10日。

クリエイターとしての感性を司る金星が火星と重なっている。これは肉食系の星でもあるが、美的感覚としてはビビットな色を好む。また金星が冥王星と180度の凶角を形成している。美、快楽が頂点を強く目指し、クリエイターとしての才能を発揮する星である。俳優星とも言われ、実際、ダンサーや照明さんなど舞台に関わる仕事に就いている人を何度か見てきた。

ただ、その快楽にあまりにのめり込むので、出費が多くなることがある星並びでもある。音楽系のクリエイターがこの星を持っていると、機材に多くのお金をつぎ込むこともあるし、バイクや車、釣りなどが趣味の人であると、身の丈を越えたものを購入していることもある。それほどに没頭するのだ。ただ、あまりに人と違うので、そのセンスが人に認められるとは限らない。

一方、彼は財運の木星が、堅実な土星と吉角60度を形成している。数字に強いのだ。節約家でもあるが、お金の管理に対しては番頭さん的な能力を持っているとも言える。

吉川君は絵を描いている時に、どうしても、高い色の絵の具を使うことをためらってしまうことがあるという。

絵の具というのは、色によって値段が違う。アクリル絵の具や油絵の具などを画材屋さんで購入したことがある人なら知っているだろう。刺激的な赤やオレンジ色など、鮮やかな色ほど値段が高いのだ。安い絵の具の2倍以上する。しかも絵を描いている時に、その色を一番上に塗るとは限らない。気に入らないと、別の色を塗り重ねてしまうこともある。

吉川君は絵を描いている時も、ついつい金勘定をしてしまうというのだ。

吉川君は年に2度、一人決算発表会をしているという。収入と支出を出し、自分一人で経営状態を確認するという。株式会社ではないので、赤字になっても誰から文句が来るという訳ではない。でも彼は自制するため、きちんとどのくらいの利益が出ているのかを把握しているのだ。

ちなみにここ数年は黒字と利益増を続けているという。

なんだかおかしさと可愛らしさを感じる。

経理にうるさいアーティストであるが、そこには理由がある。

かつて吉川君は、お金に関しては苦い思いをしている。ニューヨークのギャラリーで個展をしたことがあるのだが、1作しか売れなかったのだ。それなりの費用が掛かったはずである。そのためであろうか。彼は一時期、100万円近くの借金をしていたことがある。外出しても、昼食はコンビニのおにぎりだけというようなやりくりをして、なんとか彼は返済したのだ。

私もバルセロナのギャラリーに出品したことがあるが、散々なものだった。

その後、パリのギャラリーなどにも作品を出したが、私自身が現地に行くことは無くなった。お金が掛かるからね。

星占いの鑑定をしていると、よく“私の適職はなんですか?”と訊かれることがある。

その時、私は星の組み合わせによる適職を伝える。

例えば、水星と金星が吉角を成していれば、人とのコミュニケーションに華があって、喋ることが好きなので、営業職が適職である。

今の日本ならば、この星を持っていれば、食いっぱぐれることは無いであろう。

でも、3000年以上の歴史がある星占いのスケールで考えるならば、例えば鎌倉時代にこの星を持っていたとして、今ほど活躍ができたであろうか。人口の7割以上が農家であった時代である。おそらく、この星を持っていても、おしゃべりなお百姓さんになっていたことだろう。

また、水星と木星が吉角を成していれば、古い星占いの本には、マスコミや小説家が適職と書かれていたりする。“適職が小説家”と言われても、かなり狭き門である。江戸時代だったら、小説書きを職業としていたのは、数人である。

しかし、平成の世では、水星と木星の吉角はIT関係が適職とも書き加えられている。私が鑑定すると、この星並びを持つ人はたいていIT関係の仕事に就いていることが多い。需要の多い業界だから、すぐに受け入れられるのだ。

考えてみれば、IT関係の仕事が一般的な世に出てきたのは、せいぜいここ30年くらいことである。

ある才能を持つ星並びを持っていても、食べていける能力として活かせるかどうかは、その時代背景と社会の状況という要素の方が大きいということだ。

結局、何が言いたいかというと、適職=食べていける仕事、経済的に成功する仕事 ではないということ。

美の金星が強いアスペクトを持っていて、アーティストが“適職”だとしても、食べていけるかどうかは別の話なのである。

私は10年間の間に、3回引っ越しをした。狭い地域の中を行ったり来たり。

3回とも吉川君に手伝ってもらってきた。

引っ越す度に、人生が開けていくことを期待してきたのであるが、同じ地域を3回目となると、都落ちのような気分になる。決して都に住んでいた訳でないが。

私はその間に父を亡くし、母を亡くし・・・そうそう仏壇の隣りには吉川君の絵をずっと飾ってきた。今も飾り続けている。

色調が明るくて華やかになるから。

10年の間に就職をしたり、退職をしたり、星占いの方が注目されてきたり・・・。

そもそも絵を見てもらいたくて、ホームページを作り、もっと見てもらいたくて、星占いを載せた。そしたら、絵が邪魔と言われて、星占いのサイトになり、気づいたら、私自身が星占い師になっていた。

ジョナサン・ケイナーも元音楽家だったことを考えれば、絵描きが星占い師になっても不思議ではないわな。


でも、吉川君の方はずっと絵を描くことのみで生きている。

曇っていた空もいつの間にか、晴れ間を見せていた。

非力な3人が、せっせと冷蔵庫や洗濯機、家具などを運んでいた。

私が昔住んでいた家の、昔置いてあった場所に戻していた。

行ったり来たりしているうちに、時間ばかりが経ってしまった。

絵を描くというのは、仕事になるのかもしれないが、

仕事というものは・・・人の風景なのだと思う。