多くの人のメール鑑定の受付をストップさせて申し訳ございませんでした。

  実は先週4月2日(水)に、母が亡くなりまして、葬儀の関係でどうにも時間が無かったこともあり、気分が乗らなかったこともあり、・・・そんな理由であります。

 まだお待たせしておりますが、もう少々お待ちくださいませ。



私の母との一番古い記憶の一つが、暖かい日差しの中、手をつないで散歩したことで、そこで私はたんぽぽを見つけ、そのまぶしい黄色い花を持って帰り、家の玄関先で牛乳瓶に生けておいたことだ。幼い私は、そのたんぽぽを嬉しく何度も眺めていたのだ。

だから、病院に向かう途中、道端のたんぽぽの花を見て、そんな記憶を蘇らせていた。



桜がきれいで、これまた、自分の小学校の入学式を思い出す。思い出すというより、唯一の入学式の写真は、校門の前で母と並んで撮ったもので、よくありがちな風景だ。小学生になる嬉しさと怖さから、しっかりと手をつないでいた。柔らかく、働き者の手だった。写真の背景には桜がわたがしのように、まーるく満開になっている。



母が入院したのは、2月21日。風邪をこじらせ、デイサービスのヘルパーさんから連絡があり、駆け付けた。意識はあったが、衰弱し、喋れる状態ではなかった。風邪をこじらせたのだ。救急車を呼んだ。私は、おふくろの入院には慣れていて、心臓が悪いこともあって、2、3年に一度は入院していた。だから、救急車を呼んでも、それほど焦りはしない。スリッパと、箱ティッシュと、コップ、歯ブラシ・・・。持っていくもののリストももうだいたい頭の中に入っている。

診察、検査で4時間くらいはかかったろうか。ひどく腹が減って、売店で菓子パンを買って、薄暗い廊下の無機質な長椅子で食べたのを覚えている。

医者からもらった入院計画書には、入院予定は3週間となっていた。リハビリの予定もあるということだった。

だが、私は1ヶ月以上に長引くだろうと思っていた。

母は病院に馴染んでしまい、人懐っこくて、明るい性格なので、患者仲間ができてしまい、いつも予定などより長く滞在することになるのだ。母は保険にも入っているので、入院の日数など伸びても、お金のことなどまったく心配していない。それどころか、3年前に3ヶ月入院した時は、逆に何十万円か入り、“お袋、入院していた方が儲かるんじゃないか”って冗談を言っていたくらいだった。



今回は2月に入院してから、週に何度か、洗濯ものを取り替えに病院に通うことになった。片道、車で40分ほど。病室に行っても、酸素マスクをしたり、口から管を入れられたりしていたので、まったく話すことができない。それどころか、ほとんどが眠っていた。がーがーと寝息を立てて、眠っていた。ずっと話のできないままであった。ぼんやりと意識はあったようだった。おそらく寝ていなければ、こちらの話していることは聞こえていたのだろう。

私は見舞いに行くが、いつも行った甲斐を感じることなく、時間を過ごしていた。たいがいは仕事のメールを打っていた。

洗濯ものを取りに行って、紙オムツや尿もれパット、カット綿を買い足すのが私のやることであった。



そのうちに、母はだんだんと容態が悪くなっていき、下血までするようになり、輸血をするようになった。

それでも、私は必ず、いつも通りにケロッと回復して退院すると信じ切っていた。

およそ10年前に心臓の手術をした。人工弁を入れたのだ。その時はカテーテルもした。そんな風景を見てきたし、緊張もしてきた。医者の神妙な説明を聞いて、その時はほんとうにだめかもしれないと思ったりもした。でも、母は元気に回復してきた。

心臓に人工弁を入れてからは、あまり運動ができなくなったためか、だんだんと身体が弱くなっていったような気がする。飲む薬も年々増えていった。病院に2ヶ月に1度は通い、薬局で薬をもらう時は、あまりに種類が多いので、10分以上は待たされていた。

一方で、忘れたころに入院するようになっていた。



おふくろは、働きながら、3人の男の子を育てた。負けず嫌いで、女っ気はほとんど無かった。化粧をすると不気味なものだった。クリーニング店で20年以上もパートとして働いたが、職場でもよく頼られ、典型的な“肝っ玉”母さんだった。

私はよく、声が大きいと言われるが、それは母親ゆずりである。



母が入院しても、私はいつも個人部屋ではなく、4人部屋を頼んだ。お金が安いからではない。母はすぐに友人を作る。4人部屋の方が、友人ができ、おふくろは活き活きするからである。

だが、今回はHCUとかいう特別な治療室以外はずっと個室であった。

母にしては珍しい入院であった。



4月2日(水)は、朝、医者の先生から容態が悪くなったという電話を受けた。昨夜は尿が50ccしか出ていないという。

私は、今日は仕事があるので、明日行きますと伝えた。

でも、その後、どうにも気分が良くなかった。

気になって、自分のホロスコープを眺めた。

週末に、生まれた時の木星と現行の金星が凶角180度を形成する。もうその効力範囲の5度以内に入っていた。

木星と金星の凶角、特に180度凶角は、“失恋”の星である。

悲しい出来事がある星並びである。



私は、仕事の段取りを変え、病院に向かうことにした。それでも、楽観的な私は、すぐに飛んで行ったわけではない。おふくろの入院している病院は市立の総合市民病院で、午前中に行っても、駐車場が入れないのだ。だから、いつも外来のない午後に行くようにしていた。その日もそうだった。午前中は家で仕事の調べものをして・・・。



病院に向かう途中。川沿いを走った時、堤防の土手にたんぽぽが咲いていた。

幼い頃、母と散歩した日もこんなふうによく晴れていた、と思う。

春の青い空の下に、点々として咲いているたんぽぽだ。



病室に着いた時には、医師や看護師が忙しそうに母の口に管を入れていた。

入院してから数日後には、母は管を入れられていて、苦しそうだった。でも、呼吸ができるようになり、外したのであった・・・が、また入れられるのか。

「今から、作業をしますので、ちょっと家族控室に行っててもらえませんか」

来る予定でなかった私の顔を見て、少々驚いた様子であったが、そんな声を掛けられた。私は、手に持っていた洗いものの母の寝巻などを入口近くに鞄ごと置いて、部屋を出て行った。



しばらく家族控室で待っていた。

電話をしていると、今度は「すぐに来て欲しい」と看護師に呼ばれた。

部屋にいくと、数名のスタッフに母は囲まれていた。

医者は「息子さんですよ~」と母の肩を叩きながら、大きな声を掛けていた。



私は、医者に尋ねた。

「退院は・・・?」

担当の女医さんは、

「それはもうありません」と両手を横に振った。


 私は自分が間抜けだったことに気づいた。あまりに物事を自分の良い方ばかりに解釈していたのだ。

黒くて四角いに数字が出ていて、それが、心拍数というもので、だんだんと数が減っていく。利尿剤を使っても尿が出ないということは、腎臓ももう使えなくなっているのだろう。かといって、もう人工透析に耐えられる身体ではない。

デジタルの大きな数字は、48、、、36、、、と下がっていく。


「ご家族の方にお電話をしてください」

 私は、東京にいる兄に電話した。もちろん、仕事中だ。
 兄にとっては、私以上に、事態が実感できずにいたろう。

 「心拍数が減っていって、今、28だよ。・・・」

 
 医者は、手を握ってあげて下さいと言った。

ちいさな手だった。



昨年11月に母の姉に当たるおばさんの墓参りに行った。そこは、名古屋市内の広大な墓地だった。おふくろは脚が弱っていて、長い階段を登れない。だから、車でできるだけ近くに行って・・・それでも、やはり階段があって、私は母の手をつないで階段を登った。

久しぶりにつないだ母の手だった。

その時も、私は母の手が細く小さいと感じ、ショックを受けた。

私の記憶にある母の手とはあまりに違っていたのだ。

帰りには、近くのイタリアンレストランでランチを食べた。そのお店の味は美味しく、あまり食事を誉めない母も喜んでいた。暖かい小春日和で、窓際の席だった。



私は、母の身体が弱っているのは十分に、、、ところどころ、分かっていたのだ。

ただ、認めていなかったのだ。

働くことが趣味で、ガッツだけが取り柄の母で、頼り甲斐のある母であるのだ。


 私は耳元で、大きな声で叫ぶ、「・・・おふくろ~~~・・・」

 わずかに、心拍数が上がるが、また少しずつ減っていく。

 「・・・嘘だろう・・・」

 私は我慢できず、ベットの柄を噛みしめた。

心拍数は

9、、、9、、、9、、、9、、、0、、、0、、、0、、、0、、、

心臓は止まった。
 
 私が病院に着いて、1時間ほどでの出来事であった。

 母は私の到着を待っていたかのようだ。
 すーっと、力が抜けていくように、ふわっと、逝ってしまった。

この日に限って、腕時計を忘れていた。私が腕時計を忘れるのは珍しいことだ。そんなこと年に一度もない。

母のなきがらの横たわるベット。私。その病室の窓から、ゆっくりと陽が暮れていくのを眺めていた。

何時だか分からないまま、ずっと、2人きりの部屋にいた。


 母の誕生日は3月31日で、80歳の誕生日を迎えて、3日目のことだった。

 
 夜の9時頃、兄がやってきた。
 9時半ごろに、おふくろのなきがらとともに、病院を後にした。

葬式の日。

時おり雨も降り、風は強かったが、桜がきれいだった。

火葬場の近くの公園は満開だった。

火葬の待ち時間の間に、桜を見に散歩した。



おふくろとはよく言ったものだ。

“袋”なのだ。

いつも私をずっと包んでくれていたような気がする。

大学進学の時、哲学科に進むと三者面談で言ったら、母は先生の前で泣いた。それまで家では話が着いていたのに。母が泣いている姿なんて、他に覚えがない。

就職の時、大手の銀行の内定を辞退した時も、母は困ったような顔をしていた。その時、私は将来、親孝行をしようと心に決めたものだった。

数年前、独立してからも、母を病院に送り迎えした時、“お前、ちゃんと食えてるか?”と言って、お小遣いを渡してきた。いつも受け取らなかったが、一度だけもらった。その頃は本当に仕事が無かったのだ。


 よく星占い鑑定で、“人の死は占えますか?”と訊かれることがある。

 
 本人のホロスコープを診ても、それほど目立つ星回りでないことが多い。
 むしろ、その周囲の家族の星回りを診た方が参考になる。

 財産がいきなり転がり込む星並びだったり、時に、奥さんでも“解放”を意味する星並びだったりすることすらある。

私の場合は、母の死は、“失恋”の星並びだった。


 私は8年前に父を亡くしている。

 これで、父と母を、私は亡くしたことなった。
 生まれてから、これまでずっと多くのことを話してきた人が、この世からいなくなり、もう2度と話せなくなるということだ。

また人生の中の1つの“卒業式”を迎えたような気がする。


 1つの名も無い家族の物語が終わり、バトンタッチされたということだ。

 私は泣きたい。“おかあちゃん、おかあちゃん”と、母親を見失った幼子のように泣きたい。
 でも、もうそれが許されないということなのだ。
 バトンタッチとはそういうことだ。