この間、ホロスコープの読み方を教えて欲しいという方に、“生まれた時の冥王星と、現行の冥王星が凶角90度を作る時は、どんな凶運が来るのか”という質問をされた。

木星より遠い星同士は、実は90度や、180度の凶角を組んでも、凶運とはならない。

それは人生の節目。

例えば、土星は1周30年なので、15歳、30歳、45歳などで凶角を作るが、何となく、人生の節目だと分かるだろう。天王星は1周84年なので、凶角180度は、42歳である。これは、厄年。これだけは凶運だと言えるかもしれない。でも体調の変わり目という人もいるしね。そう、43歳は、もっとも老眼を自覚しやすい年齢というデータをどこかで見たことがある。


で、冥王星はどうか。冥王星は一周、240年以上なので、単純計算すれば、90度凶角は、60歳の時なのだが、どうも逆行する時間も長いためか、50代でやってくることもあるようだ。

冥王星は、黄泉の星とも思われている。プルートとはそういう意味だ。

星占い上でも、最も不可抗力の、まさにあの世の、運命的な力を発揮することが多い。


 現行の冥王星が、生まれた時の冥王星の90度位置に来た時、人生の節目を迎えるといういい例があるので紹介しよう。



 先日、小野田寛郎氏が91歳で亡くなった。私は、個人的に尊敬していた人だ。

太平洋戦争の後、およそ30年間、フィリピンのジャングルで戦い続けた元日本兵である。

生年月日は、1922319日。

http://www.m-ac.com/index_j.html

 シングルチャートを見れば分かるが、土星と冥王星が凶角90度を持っている。自分の限界、もしくは限界以上にまで働く、働かされる星である。まさに小野田氏には、理解できる星である。

また海王星と火星が吉角を持っており、目標に向かって努力する人。また本能的に危険を回避できる人である。

木星と火星が吉角を持っており、エネルギッシュな行動力があり、勝負運を持っている人である。

 なるほどと理解できる。


そのほか、木星と海王星の吉角、バブル星を持っている。


(これより“~氏”を省略します。)

 

 小野田は29年3ヶ月の間、フィリピンのルバング島のジャングルの中で戦争をし続けた人である。捜索隊が、戦争が終わったことを伝えようと、チラシをばら撒き、アナウンスをかけても、常に敵の謀略と考え、日本が戦争で負けるはずがないと信じきっていた人だ。


  調査団は何度も派遣されてきた。昭和47年からの厚生省による1年間の捜索では、親兄弟、戦友を含め、のべ17、270人を動員し、1億円近くの資金が投じられた。

  でも、彼は出てこなかった。政府は捜索を打ち切った。

 

 そんな中、捜索が終わった翌年に、鈴木紀夫という24歳の青年が一人ジャングルに入り、小野田と接触に成功する。そして、小野田は日本に帰ってくることになったのだ。この時、小野田は52歳だった。

 

 実はこの接触したのは、1974220日。

 この日と小野田の生年月日をダブルチャートで診て欲しい。

http://www.m-ac.com/double.php


 生まれた時の冥王星と、現行の冥王星がちょうど180度である。そう、小野田氏の人生の節目だったのだ。

 しかも、水星、土星、土星、冥王星で、魔のTの字(Tスクエア)ができている。

 魔のTの字としての凶運は働いていたのだろうか? とは思うが。

  

  小野田の人生をさかのぼろう。

   

  小野田寛郎は大正11年、和歌山県に生まれ。父は教師から新聞記者を経て、県会議員にもなった男で、家は笑った顔を一度も見せたことがないという。そんな父とソリが合わず、中学を出た小野田は、推薦での進学を放棄して、中国漢口の貿易商に17歳で勤めたのだ。 

  彼は、漢口ではよく働き、よく遊んだ。仕事がよくできるからと、月給200円をもらっていた。当時日本での初任給が40円の時代である。租界のダンスホールに行く時は、靴からスーツまで全てヨーロッパのブランドもので身を包み、アメ車を転がしていたという。

 この辺りが、彼の“バブル星”の影響なのだろうか。


  昭和17年、20歳の時に徴兵検査を受け、中国の戦線で抗日ゲリラ掃討などに参加した後、昭和19年、陸軍中野学校二分校に入る。そこは、スパイ、ゲリラ活動の訓練機関だった。小野田は中国語が堪能で、当時珍しかった自動車の運転ができたこと、そして中学時代に剣道で全国ベスト8という優秀な成績を収めていたことが、中野学校に入る要因となっていたのだ。


  小野田はゲリラ戦を指導するため、昭和19年12月31日未明にルパング島に単身上陸。弾薬を始め、荷物を駐屯していた守備隊の兵たちと降ろしているうちに、昭和20年の元日を迎える。その後、29年あまりをこの島で過ごすことになる。


なぜ、鈴木紀夫が一人で小野田を帰還させることに成功できたのだろうか。

 実は、鈴木紀夫の生年月日がネットでは出てこないので、ホロスコープでは彼と小野田の運命的な線が読めない。

 

鈴木紀夫は昭和24年、千葉県生まれ。まさに団塊の世代である。学生紛争の頃、法政大学の学生だった鈴木も周りの者と一緒にゲバ棒を持ってカリカリうわずっていた。

  しかし彼は、周りの者の語る“理論”には、完全に同調できなかった。言葉遊びに聞えたという。彼は東大や日大の学生が建てたバリケードの堅固さを知っていたが、それがあっけなく落ちてしまった。

  運動も学校もシラけて嫌になり、中退して、アジア、ヨーロッパ、アフリカの放浪に出かけてしまう。最初に着いたバンコクでの所持金はたったの3万円だった。それがおよそ4年間の旅の始まりだった。


  鈴木は、行き先で土木作業をしたり、血を売ったりして旅を続けてきた。多くのバックパッカーやヒッピーたちと出会い、日本に帰ってくる。

  しかし、急速に経済成長を続けていた日本に、鈴木は違和感を持っていたのだ。走っている車は外車のように見えるし、テレビをつけると素人ばかり歌っている。「学歴無用論」と言いながら、新聞の求人欄には大学卒の方が、給料が高く載っている。

  鈴木は、一ヶ月千葉に居ただけで、北海道に行ってしまう。土方をしながら、鬱々とした日々を1年過ごし、ついに小野田探しの旅に出るのだ。

  

  一方、小野田は、ルバング島への捜索隊が置いていった新聞や、島民から奪ったラジオから、日本の経済的繁栄を知っていた。トランジスタラジオを改良し、短波受信機を作って、情報を得てもいたのだ。洗濯機もクーラーの普及も、東京オリンピックも東海道新幹線も知っていたのだ。

  実は、4年間放浪していた鈴木より、新聞をよく読んでいた小野田の方が、ある一面では日本の現状をよく認知していた。

  しかし、小野田氏はその豊かな日本は、アメリカが作った傀儡政権だと考え、本当の日本政府は中国・満州で巻き返しの時を狙い、闘っていると信じていた。

 ベトナム戦争で、フィリピンから飛んでいくアメリカ軍の爆撃機を見て、日本軍が押し返していると考えていたのだ。

 

 本土はアメリカの言いなりの傀儡政権。だが、経済的に目を見張るほどに繁栄している・・・。

いったい、どんな国になったんだ?


 ちなみに、小野田は30年間の戦闘行為により、フィリピン警察軍、アメリカ軍を30人以上殺傷している。実に優秀な兵隊である。 

 よく勘違いされているが、小野田は最初から独りでジャングルの中で生活してわけではない。少尉であった小野田には、3人の部下がいた。部下の1人は1949年(昭和24年)に逃亡。その後、1954年(昭和29年)に1人の部下が敵軍?に射殺された。

残った部下の小塚上等兵とともに長く過ごすが、1972年(昭和47年)に彼も敵に射殺されてしまう。この小塚とは、ラジオで日本の競馬中継を聴いて、賭けをしていたそうな。

鈴木と出会う、14ヶ月の前のことだ。


小野田は後に涙を溜めて語っている。

“最後の1年間が人生で最もつらかった。人間は一人では生きていけない。家族や友人、日本と仲良くしてくれる国も大切にしなければ”

 

ジャングルの孤独は、いくら腕が良く、頭が切れ者の兵隊も変えてしまう。


まさにその頃、小野田の生まれた時の冥王星と、現行の冥王星が、90度位置になる。

 

  政府の派遣した大勢の捜索隊が来ている時には、小野田は姿を見せなかった。


  しかし、鈴木が一人、テントを張っている時には、4日間様子を見た後、銃を向けて現れる。

 小野田はけったいな青年が、日本人だと気づく。

 靴下を履いたまま、サンダルを履いていたのだ。現地のフィリピン人は靴下を履かない。 


  鈴木は現地の人から入念に、小野田がよく現れるポイントを聞きだしていた。

4年間ユーラシアを放浪した賜物だろう。

鈴木は大勝負の賭けに勝った。

鈴木は、小野田と話をし、日本に帰るためには、任務解除の命令が必要ということを聞き出す。これが、小野田帰還に結びついたのだ。


  小野田は、鈴木を見た時に、あまりにあっけらかんとしていて、悪気がなかったから心が開けたと語る。


  しかし本当は、2人は外から母国を見て、同じ疑問を持っていたから、相通じたのではないか。

  “今の日本はどうなっているんだ?”という疑問。


  小野田は大きく歓迎され、日本に帰ってくる。しかし、次第に奇異な目で見られ、「軍国主義の亡霊」とまで言われてしまう。日が経つにつれ、違和感が増していく。小野田は、わずか1年でブラジルに移住してしまう。

 

 そして、南米の原野に小野田牧場を開いた。ルバング島に居た時間より長くいることになった。その後、福島で自然の大切さを教える「小野田自然塾」を開いた。


  鈴木は、小野田発見で一躍有名になる。

  しかし、“冒険家”の鈴木はまた旅に出る。

  バブル景気に入りかけた1987年(昭和62年)、ヒマラヤへ雪男探しの旅だ。そこで、雪崩に巻き込まれ、鈴木は帰らぬ人となる。


  2人は、日本を騒がせたが、日本を去らざるをえなかった。いや、もともと日本には居られない人種だった。

  小野田寛郎と鈴木紀夫は、まさに“日本に居場所を見つけられない者同士”だったのだ。そして鈴木の死まで、2人は良い友人であったという。


  鈴木だからこそ、小野田の心の封印を解くことができたのだろう。 

  おそらく鈴木も小野田から、何らかの答えを得たことであろう。

 小野田は語っている。

「家族で手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最後に会えるから、日本で死にたい。」

 小野田寛郎氏のご冥福をお祈り致します。



冥王星は月より小さな準惑星だ。そんな星の力が人生を変えるとは到底思えない。


惑星と運命は、時計と時間のような関係なのではないだろうか。

時計の針を戻しても、時間は戻らない。

時計は、ただ時間の流れを示し、我々に時間を教えてくれている。

惑星は、ただ運命の流れを示し、我々に運勢を教えてくれている。


生まれた時の冥王星の位置と、今現在の冥王星の位置が、地球から見て90度になった時、天は人生の変わり目を下すのだろう。